諏訪湖畔に建つサンリツ服部美術館。ほの暗い展示室の独立した展示ケースの中に“それ”は置かれていました。 一時間ほどのあいだ、展示ケースの周りを少しずつ角度を変えながら廻り、視線を落として真横から、つま先立ちで見込みを覗き込み、少し離れて、あるいはシートに座りながら・・・ 何度となく写真で見てきた国宝茶碗の実物が目の前にある。しかし、感じたことは自分自身意外なものでした。 「これは、茶碗ではないのかもしれない。」 正確には、「これは、茶碗として作られたものではないのかもしれない。」 私には、眼前のガラスケースの中に置かれている“それ”が、茶碗とは思えなかった。茶碗に見えなかったのです。 なんとも奇妙な感覚でしたが、強いて言葉にすれば“直観”としか言いようがない。 以前、私は不二山私論 その二の中でこう書きました。 -- 光悦の茶碗を一覧したときに、何故だか「不二山」には違和感のようなものを覚えます。それは光悦の他の茶碗には見られない特殊な釉調だとか、評してよく言われる格調の高さ云々とはまた違った何か・・・どこかよそよそしい、親しみを拒絶しているような印象を覚えるのです。 「乙御前」や「紙屋」に感じる「この茶碗で一服いただいてみたい…」という親しみやすさを感じないし、むしろ超然や孤高という言葉さえ浮かんでくる。茶の湯の世界の言葉で言うならば茶味を感じられない。 -- 「雨雲」や「乙御前」「紙屋」を目の前にしたときに湧き起こるもの、「触れたい」「掌にいだきたい」という衝動が、「不二山」を目の前にしてもついぞ起こらなかった。 今回の展示では、「不二山」茶碗のほかに光悦自筆の共箱(茶碗の作者自身が箱書を認めた箱)とされる箱や添え状も展示されていました。 私は書については不勉強で、箱書が光悦自筆であるのかどうか判断できるだけの見識を持ちませんが、箱の左下隅に捺されている、いわゆる光悦の角印は後世の人物によるものだろうと考えています。 この光悦自筆とされている箱書と捺されている角印について、書跡史学者の増田孝さんは著書『本阿弥光悦 人と芸術』の中で次のように述べています。 ・・・しかし残念ながらこの箱を見るかぎりにおいて言えることは、ことに墨書される「不二山」銘ならびに「大虚庵」の書は光悦の筆跡とは言いがたいということである。 たしかに筆法はよく似ているものの、署名の「大虚庵」などは特に手紙の運筆に比較すれば力強さに欠けている。・・・ ・・・だから仮に、こうした茶碗にしては珍しく古い箱が付属しているにせよ、これをもって「伝世の光悦茶碗のなかで光悦共箱」の数少ない例だと言い切ってしまうことはいささか早計であろう。・・・ ・・・またここには、いわゆる光悦和歌巻のうち、光悦自筆とは言えないものにもっぱら押捺されるものとよく似る「光悦」の角印が蓋の下部に捺されている。 しかし和歌巻に押捺されることの多いこの印の大きさが、蓋の大きさにそぐわないものであることなども考え合わせてみるなら、必ずしもこの箱を光悦の共箱とは見ないほうが適切であろうと思う。 なぜなら、こうした銘や印を後世において細工するのはむしろたやすいことだからである。・・・ 仮に箱書が光悦自筆ではなく共箱ではないとすると、「不二山」という銘が光悦によるものではない可能性も出てきます。 改めて考えてみると、「不二山」の箱書と角印、付随する伝承・逸話には不自然な点があります。 まず角印。増田孝さんも言及していますが、箱蓋の大きさに比して大きすぎるという点。そしてなにより、光悦自筆とは言えない、つまり、光悦ではない誰か(=光悦流の揮毫職人か)によって書かれたと考えられる和歌巻、色紙、短冊などに捺されている角印が捺されているという点。 光悦自筆と認められる書作品には捺されていない角印が、共箱とされる「不二山」の箱には捺されているということです。 そして、光悦本人は使わなかったと考えられるその角印が、能書として知られた光悦の筆跡の上に重なるように捺されている。 箱書が書家として知られた光悦の自筆であることを認識していたならば、角印は字を避けて捺そうとするものではないでしょうか。私ならそうします。 角印も光悦自ら捺したのではないか、という考え方もできますが、それにしては前述のように角印が不自然に大きい。 鹿下絵新古今和歌巻などに非凡なレイアウト感覚を発揮した光悦にしては粗雑と言わざるをえません。 また、光悦の娘が大坂の富豪に嫁ぐ際に、嫁がせるための仕度が何も出来ない旨を伝えたところ、仕度は要らぬから光悦手造りの茶碗を持たせてくれまいか、との申し入れがあった。その申し入れに応じて光悦自ら名付け、娘に持たせた茶碗が「不二山」であり、光悦の娘の振袖の片袖と伝わる生地に包まれていることから振袖茶碗と呼ばれる。という伝承があります。 しかし、当時、京で指折りの富裕な町衆であった光悦。加賀前田家という大藩から安定的に知行を受け、為政者である徳川将軍家と浅からぬ繋がりを持ち、最近の研究では尾張徳川家からも知行を受けていた可能性も指摘されています。 その光悦が、娘一人の嫁入り仕度(持参金や道具類の用意)が出来ない経済状態であったとは考え難く、当時、光悦手造りの茶碗が嫁入り仕度に匹敵するほどの世評を得ていたことを窺わせる史料も見当たらない。やはりこの点にも不自然さを感じます。 茶碗の伝来というのは、茶碗の履歴であり、物語です。その茶碗がどのような人物・茶人の手を経てきたのか、愛でられてきたのか、というストーリー。 茶道具や菓子に銘を付ける行為も物語性の付与と言えます。その物語を茶人は味わい重視する。 「不二山」には大文字屋・比喜多権兵衛以前の伝来はありません。光悦の娘の嫁ぎ先も、比喜多権兵衛へと渡った経緯も不明です。 もっとも、光悦茶碗に古い明確な伝来を持つ茶碗はほとんどありませんから、「不二山」だけが特に伝来が薄いというわけではありません。しかし、「不二山」のように、伝来のほかに詳細な伝承を持つ茶碗もまたありません。 どうも私にはこの伝承が“過剰な物語性”に思えるのです。 つまり、元々は茶碗ではない「不二山」に振袖茶碗の伝承という“過剰な物語性”をまとわせることで、本来無かった茶碗としての伝来を補おうとしたのではないか、と。 では「不二山」は茶碗ではなく何なのか。 不二山私論から5年を経た現在(いま)再考してみたいと思います。 つづく
by otogoze
| 2012-12-31 02:33
| 陶芸
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