実は光甫の作陶は光悦よりも多彩です。 光悦の作はほぼ茶碗のみで、ほかに香合が数点あるだけですが、光甫の作は茶碗・水指・香合・花生、作風も樂・信楽風・瀬戸風など多様で、また、手づくねだけでなく轆轤もひいた。 残された作を見れば、光悦の作陶は、その消息に書かれているように「ちゃわん(茶碗)」や「かうはこ(香合)」を作ることであり、一方、光甫の作陶は【83段】に書かれている通り、「陶器」作りという言い方がふさわしく感じます。 これだけ多種多様なやきものを作るには、かなりの量の土が必要だったはずです。例えば水指は大きさによっては茶碗に使う量の何倍もの土が必要になりますが、その土はどこから調達していたのか。 光悦と同じように樂家からでしょうか。光悦のように茶碗や香合を作る分量、樂家に宛てた消息に書かれているように、茶碗四つ分の土を時々提供する程度であれば、吉左衞門常慶も快く土を届けてくれたでしょう。 しかし、茶碗屋にとって土は極めて重要なもの、茶碗屋の”いのち”と言えるものです。山から採取してきたものがそのまま使えるわけではない。 土が茶碗屋にとっていかに大事なものであるかを知っているからこそ、光悦は「土を今、用意できるだけ」ではなく、「茶碗四つ分」と常慶に伝えているのです。 光甫も樂家から土の提供を受けていたでしょう。赤樂茶碗や黒樂茶碗、樂焼香合も現存しています。 当初は、祖父・光悦や父・光瑳同様、樂家に助力を請い、土の提供も受けて茶碗作りを始めた光甫が、次第に樂焼以外も手がけるようになり、必要な量と質を求めて自ら探し出したのが”鷹ヶ峯のよき土”であり、 その土を使い「折々拵えた」陶器が、後世、”空中信楽”と呼ばれるようになった、ということではないかと考えています。 つづく
by otogoze
| 2014-07-13 18:06
| 陶芸
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