鷹ヶ峯の光悦から、洛中上京、本阿弥辻子(ほんあみのつじ)の光瑳に宛てて書かれた書状です。 素っ気無い箇条書き、その上、走り書きのような運筆ですが、身内に宛てたものだけに、生活感漂う内容で、光悦の鷹ヶ峯での日常を垣間見せてくれます。 一、 加式少様(=加藤式部少輔明成)よりのお返事、八日の加賀よりの書状、 たしかに届きました。 一、 ちゃわん継ぎが出来終わりましたので、置いておきます。 一、 茄子を十本送ります。こちらにはまだありますので、おすそ分けいたします。 お心遣いありがとうございます。 この簡略な文面からも、いくつかのことがわかります。 光悦宛ての手紙、恐らく贈答品なども一旦は本阿弥辻子の屋敷に届き、それを使いの者が鷹ヶ峯まで届けていたらしいこと。 ということは、光悦は鷹ヶ峯に移住、生活の拠点を移したのではなく、あくまでも本邸は本阿弥辻子、鷹ヶ峯の屋敷は別邸という位置づけだった。 必要に応じて本阿弥辻子と鷹ヶ峯を行き来していたのでしょう。 その次に書かれていることは大変面白い。光瑳から、欠けたか割れたかした茶碗の直しを頼まれた。光悦自身が直したのか、鷹ヶ峯の住人など、誰かに頼んだのかはわかりませんが、直しが終わったので、置いておきます。と。 『光悦町古図』によると、光悦の屋敷の隣が光瑳の屋敷ですから、直しの終わった茶碗を、隣の光瑳の屋敷に置いておきます、ということでしょう。 茄子は光悦自身が丹精したものか、使用人に作らせたものか、あるいは、鷹ヶ峯の住人から貰ったものでしょうか。 この書状中に書かれている「ちゃわん」の筆跡と、前記事のちゃわんや吉左殿宛書状中の「ちゃわん」の筆跡を比較すると、 ほぼ同じに見えます。 ちゃわんや吉左宛には、「鷹峯」とも「大虚庵」とも書かれておらず、本阿弥辻子の屋敷で書かれた可能性も残りますが、二通の書状は、恐らく近い時期、鷹ヶ峯で隠居暮らしをしていた元和、寛永年間に書かれたものではないでしょうか。 光悦は慶長17年頃に中風を患い、後遺症があった。光悦と中風については記事を改めて書きますが、鷹ヶ峯での隠居暮らしには、転地療養の意味もあったのではないかと思うのです。 樂家から届けられた土をひねり、家業に忙しい光瑳から頼まれた茶碗の修理をし、ひょっとすると、畑で茄子を作ったかもしれない、晴耕雨読(作)の隠居暮らし。 病身の老人が、鷹が峰のよき土を見立てるために、あちこち探し歩き、重労働である土作りをしたとも思えない。 やはり、【83段】は光悦ではなく、光甫の言葉だろうと思うのです。 つづく 【追記】 宛名の咄斎老とは、咄々斎(とつとつさい)、千宗旦(せんの そうたん)のことで、宗旦から茶に招かれた光悦が、「日時はいつでもよいですが、同席する客(相客)次第です」と返事を認めたもの。 追而書(おってがき=追伸)に、「御状、唯今従鷹峯届申候(お手紙、ただいま鷹ヶ峯より届きました)」とあり、宗旦からの書状を受け取った光悦が鷹ヶ峯ではなく、洛中、本阿弥辻子の屋敷に居たことがわかります。 宗旦が書状を鷹ヶ峯に届けさせたところ、光悦は洛中に戻り不在だったため、使いの者が本阿弥辻子の屋敷へ届けた。行き違いになってしまったわけですね。 光悦が洛中の本邸と鷹ヶ峯の別邸を行き来していたことがわかります。
by otogoze
| 2014-07-18 22:58
| 陶芸
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