光悦茶碗の中でも「黒樂茶碗 銘 七里」「黒樂茶碗 銘 時雨」「黒樂茶碗 銘 村雲」「黒樂茶碗 銘 雨雲」などには特殊な施釉法が用いられています。口縁や胴の一部などの釉薬を掛けはずして地肌を露出させる施釉法です。 当時の他のやきもの、瀬戸焼、美濃焼、同じ楽焼質のやきものなどを一通り見渡してみても、類似した施釉法は見当たりません。 特に変わっているのは飲み口、唇が触れる部分に釉薬を施していないという点です。直接唇が触れる部分なのだから感触に違和感がないように、茶を飲みやすく滑らかに吸い切れるように・・・つまり使い勝手を考えれば釉薬を施すのが普通だと思うのですが、光悦は明らかに意図的に掛けはずしている。 光悦はあのような施釉法をいったいどこから発想したのでしょうか。 従来のセオリーから逸脱した、茶碗としての使い勝手を一部犠牲にするような施釉法が、まったく白紙の状態から発想されるとはちょっと考えにくいように思うのです。 光悦の茶の湯の師の一人であったと考えられる古田織部の意を受けて造られた織部焼のように、轆轤で挽いた茶碗をわざと大きく歪ませる手法や幾何学模様を描いたりというような、元々のかたちに大幅に手を加えるという手法とも方向が異なります。 やはりそのような画期的な発想には、その元になった何らかのヒントがあったと考えるのが妥当なのではないだろうか・・・ 思い当たったのは「不二山」の釉景色でした。定説のように白釉が焦げたにせよ、私が考えるように黒釉が剥落したにせよ、胴の下半分が広い範囲にわたって土の地肌が露出して荒々しい岩肌を思わせる状態になった。 光悦はもちろん驚いたでしょうし、落胆したかもしれない。自分が意図した焼き上がりにはならなかったわけですから作品としては失敗作だったでしょう。 しかし光悦はその失敗に“新たな美”を見出したのではないか。 例えば「赤樂茶碗 銘 雪峯」は焼成中に大きく割れてしまうという明らかな失敗を金漆で繕うことによって、異形とはいえそれまでになかった釉景色を作り出しています。 つまり、あの斬新な施釉法は「不二山」の釉景色を意図的に再現しようとしたものではないか。「不二山」の失敗があの独特の施釉法を生み出したのではないか、ということなのです。 その仮説のもとに、光悦の造形意識の変遷に沿ってはじめに挙げた一群の黒茶碗を並べることも可能かもしれません。 もちろん茶碗の造られた順番は確定されたものではなく、釉薬を掛けはずす手法もあくまでも私の推測にすぎません。 ![]() 「七里」は姿形も「不二山」とよく似た腰を角ばらせた半筒形。一度全体に黒釉を施した後に、どうすれば「不二山」のあの岩肌のような釉景色を再現できるか、と考えながら部分的に何箇所かの釉薬を拭い取ってみた。 ![]() 「時雨」は「七里」のような半筒形の腰の部分を丸く削り、全体に「不二山」や「七里」よりも薄く削り込む。釉薬は「七里」よりも広範囲にわたってかなり大胆に拭い取ってみた。 ![]() ![]() 「村雲」「雨雲」になると姿形も有機的な動きのある、光悦でなければ造り出せない独創的なかたちに。一度全体に施した釉薬を部分的に拭い取るという手法ではなく、視覚的効果を考えつつ釉薬を掛けはずした。 このように並べてみると、「七里」から始まった「不二山」の岩肌の再現の試みが試行錯誤を繰り返し、「雨雲」に至って当初の目的を超え、さらに斬新な造形へと至った道筋を辿ることができるように思うのです。 そして、この施釉法が黒茶碗に限られているということが「不二山」の下半分に黒釉が塗られていたことを暗に示している、と考えるのはあまりに短絡的に過ぎるでしょうか。 「不二山」は失敗作だったかもしれない。しかしその失敗が光悦の造形意識の深化をもたらし、“新たな美”の創造に繋がったのかもしれません。 失敗作が必ずしも駄作であるとは限らないのですから。 つづく
by otogoze
| 2007-10-17 02:31
| 陶芸
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