光悦が茶碗造りを始めたのはいつ頃のことなのか。 元和元年(1615)、徳川家康から鷹ヶ峰の地を拝領してから始めたのだろうという説がほぼ主流となっていますが、それ以前の慶長年間には既に造り始めていたのではないかという説もありはっきりとは判っていません。 鷹ヶ峰拝領後に始めたという説の主な根拠となっているのは、光悦が作陶の助力を仰いだ樂家の二代目吉左衛門常慶(きちざえもん じょうけい)に宛てた消息(=書状・手紙)が、その書風から推して鷹ヶ峰拝領以降の元和年間から寛永年間にかけて書かれたものと考えられていることです。 しかし、最近見つかった消息には元和元年以前、慶長年間から既に作陶を始めていたことを窺わせる内容の記述が見られることなどから、私は慶長年間中頃から末には作陶を始めていたのではないかと考えています。 いずれにしても光悦は五十歳を越えており、光悦の茶碗造りは“五十の手習い”だったということです。 光悦は七十九歳の長寿を全うしましたが、五十歳という年齢は当時の多くの人にとっては老境、それもほとんど最晩年と言っていいでしょう。例えば光悦の茶碗造りを助けた樂家三代目道入(のんこう)は五十七歳で没しています。 いかに光悦が審美眼に優れ天賦の才に恵まれていたにしても、老境の手習い、しかもそれまで作陶経験のなかった素人の光悦が、茶碗造りを始めたばかりの頃から「雨雲」や「乙御前」のような茶碗を造ることができたとは到底考えられず、そこにたどりつくまでにはいくつもの“習作”があったはずです。 では現在残されている光悦作とされる茶碗の中にそれらがあるのかと言えば・・・恐らくないでしょう。 現在伝来している光悦茶碗というのは、時代と茶人たちの眼によって取捨選択され残った、言わば“光悦的”なものだけだと考えられるからです。 例えば樂家初代長次郎の「大黒」のような光悦茶碗があったとしても、それは“光悦的”ではないが故に光悦作として選び取られることはなかったでしょう。 茶人たちの眼に適わなかった“光悦的”ではない習作は、そのほとんどが省みられることなく埋もれて行ったのではなかったか。 実は光悦の習作については興味深い史料が残されています。 表千家五代目随流斎宗佐(ずいりゅうさい そうさ)の覚書『随流斎延紙ノ書』(1680年代成立)がそれで、その中に次のような記述があります。 一、 横雲茶碗 光悦焼初と云、古田織部古歌ニテ名付たると云 横雲の柴の庵のかたむきて 軒の雫のおとのミちかき 宗恵書 この古田織部が古い和歌に因んで名付けたという「横雲」という銘の茶碗は、樂家初代長次郎作として古来著名な「長次郎外七種(黒樂茶碗)雁取、閑居、小黒(赤樂茶碗)一文字、太郎坊、聖、横雲」の一つ、「横雲」と考えられます。 この「横雲」は長次郎の作ではなく、光悦の初期の作であるというわけです。しかも命銘したのは光悦の茶の湯の師であったとされる古田織部だという。 【左上=一文字 左下=聖 右上=太郎坊 右下=横雲】 「一文字」と「太郎坊」は典型的な樂茶碗型で、長次郎作と言われて何も違和感は感じないでしょう。「聖」はやや作風が異なっており、私は二代目常慶の作ではないかと考えていますが、長次郎から宗慶、宗味、常慶までのいわゆる“長次郎工房”が作り出した長次郎焼の域に納まる作風です。しかし「横雲」はこれらの作風とは確かにかなり異なっています。少なくとも典型的な樂茶碗型、長次郎型とは言えません。 *樂家では初代を長次郎、二代目を常慶と数えているが、家系図には長次郎と常慶の間に宗慶、宗味という名があり、この時代に四人の人物が存在したことが記されている。 宗味は常慶の兄、宗慶は宗味・常慶兄弟の父親となっているが、長次郎と宗慶の関係についての詳しいことはわからない。 四人の職人による共同制作体制、“長次郎工房”と呼べるものが存在し、工房作品に“長次郎焼”の名が冠せられることがあったのだろうと考えられている。 では随流斎が書いたとおり、「横雲」は光悦の初期の作なのでしょうか。 表千家五代目隋流斎宗佐の養父、四代目江岑宗左(こうしん そうさ)が書き残した『江岑咄之覚』(=茶道具の覚書)には、「横雲」が含まれる「長次郎外七種」のさらにワンランク上の「長次郎七種(黒樂茶碗)大黒、東陽坊、鉢開(赤樂茶碗)検校、早船、木守、臨済)」の内、「早船」は駿河という陶工の作であり、「臨済」は大名茶人の織田有楽斎(おだ うらくさい)の作であるという、「早船」「臨済」の長次郎作を否定する記述があります。 一、 早舟ノ茶わん、駿河と申人才工焼、古、少庵ニ有 一、 りんさい、有楽焼也 *『咄之覚(はなしのおぼえ)』という書名は、父・咄々斎(とつとつさい)宗旦の話の聞き書き、の意と考えられる。 *かつて「早船」を所持していた少庵とは千利休の養嗣子・千少庵のことで、千宗旦の父。織田有楽斎長益は織田信長の弟で大名茶人。光悦とも親交があった。 江岑宗左は三千家の祖・千宗旦の子ですから、時代的に利休・長次郎とそれほど大きな隔たりはなく、記述の信憑性もそれなりに高いものがあると考えていいでしょう。 また、父の宗旦は光悦と親しく、光悦が世を去った年には江岑宗左は二十四歳。親交があったかどうかは不明ですが、生きた時代も多少重なっているので光悦を知っていたことは間違いないでしょう。 それまで宗旦と考えられていた光悦の「乙御前」の命銘者が、実は江岑であったことも『江岑咄之覚』の記述から明らかになりました。 随流斎宗佐はその江岑宗左の養子です。他家(久田家)から養子に入り表千家を継いだ身であれば尚のこと、養父が語ること、自分に伝えてくれることを一字一句漏らさぬように書き記そうとしたかもしれません。 「横雲」には「雨雲」に見られる鋭い箆使いも、「乙御前」に見られるうねる曲面も見ることはできませんが、のちの自在な造形の出発点、光悦の習作としては十分許容できるものだろうと考えています。 【参考文献】 『遊芸文化と伝統』 熊倉功夫 編 吉川弘文館
by otogoze
| 2008-11-15 08:37
| 陶芸
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